イラクでの米軍による虐待行為や、あまりにも非対称な「戦闘行為」を見るにつけ、そもそも認識レベルで同じカテゴリーのヒトとして捉えられていないんだろうなぁと思う(確かに戦争とはそういうものだ、という側面があることは否定しないが、隠し通せなかったのであれば問題化されるのは当然だろう。また内部告発によって発覚したものもあるということは、「アメリカ」なるものを一元化して捉えない為にも別に考えられなくてはならないだろう。)

フセイン政権を打ち倒した時、イラクアメリカのもたらす自由によって開放され、それによって「普遍的」な近代の理念を獲得した「イラク人」によるイラクという「近代国家」が成立するはずだと考えていた人もこの”討伐”を意図した人の中にはいたのだろう(他にもっと妥当な落としどころも企図されていたのかもしれないけれど、実践されたことからはあまり見えてこない。CPAには正統性が見えないし)。

なるほど確かに当初まとまりに欠けていたイラクという国家の領域と見なされる土地に住む人々は「イラク人」としてのアイデンティティを見出しはじめているように思われる。しかしそれは当初”討伐”を行う側が想定していたような御旗の下によるものではなく、逆に”討伐”者に対するアンチという御旗によってであるように思われる。その意味では皮肉ではあるけれど「イラク人」そして「イラク」はまとまりを見せるかもしれない。”討伐”者にとっては最も望ましくない――しかしながらそうなることを促しているようにも傍からは見えるところの――形で。

では、そうした(イラクを超えてゆくような)二元論的な世界把握を根本から解きほぐすために、何をすることができるのだろう。