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どの段階でトラックバックが認識されたのかわからないけれど、とりあえずトラックバックできたようだ(しかしながらこちらの編集が先方に反映されないという状況…。道は遠い…。)

glocal ethos: 2004年05月24日: 「批判や正しさの述べ方」

(1)感覚の摩耗について
その("キャスター"というよりもむしろ)ニュースの読み手が、何故「もしもこれが本当なら、アメリカ軍の行動は正しいとは言えません。……アラブ社会の批判も高まるでしょう」と言うよりも、「もしもこれが本当なら、アラブ社会の批判が高まりそうです」といったのかを考えてみたいと思います。

この"他人事"観は結局ニュースの受け手である我々の感覚の摩耗を反映するものではないでしょうか?「ああまたか」「大変だねぇ」で済ませてしまってはいないでしょうか?イスラエルパレスチナ北朝鮮関連の報道のあり方と関連させてより強くそう思います(もちろん後者の方が日本なるものと関わっているだけより強い関心を引きつけるのはある意味"自然"(なこととして捉えられる)だとは言えるでしょうが、そうしたことと、イラクパレスチナ(やアメリカやイスラエル北朝鮮や日本)の虐げられた人々に思いをはせることは対立するものではないでしょう。)

もちろん四六時中イラクのことを考えて生きる必要は全くないと思いますが、それでもそこで起きた明らかに正しくはない出来事に対して少しでも思いをはせるべきではないでしょうか。少なくとも僕はそうありたい――それは結局偽善でしかないのではないかという問いも自らに突きつけながら――と思います。

(2)「正しいこと」の根拠について。
教条的な「正しいこと」の表明ではなく、対話的に組み上げていく基盤として、自覚的に言語化し、明示することの必要性?
それが構造的に排斥してしまうような声をどのように包摂しつつ行うことができるか。

――
正当性が何かによって担保されるものであると考えるならば、それはその何かの正当性を無限に遡及せざるをえない。そこで第一原因を設定する/しないに関わらず、そうしたモデルによる正当性は結局の所、実践のレベルでは多かれ少なかれ剥き出しのパワーポリティクスに寄り添うものになってしまうように思う。

ここで問題になるのは、ある正当性に対して突きつけられた「否」をどのようにマネージするか、ということであり、それはまた自由あるいは寛容の臨界という極めて今日的な問題につなげて考えることができるだろう。

そしてその問題は、たとえ正当性が様々な交渉の中で形成されていくものであるという(より妥当であると考えられるところの)モデルを取ったところで避け得るものではない。公正であること、という視点を取り込んだとしても、どのようにしてその公正さが達成されるのかという点においてはやはりその「否」――そもそもそうした公正さを折衝しようとする土俵自体に対して突きつけられたものかもしれない――の問題は残るのである。

正義とは過程でありまた動態であるということは容易いが、ではそれはどのように実践されうるのか、また機制化されうるのか。

――
ちょっと視点を変えて、「否」を暴力的な形で噴出させない為には何をすればよいのか、という問いを立ててみよう。

一つには、「否」に対して、様々なレベルでの矯正/強制/暴力を含めて、対症療法的に対応するというものがあり、またそれに対して「否」を正当性の形成に構造的に取り込むというものがあるだろう(更に「否」の目先をそらす――例えば富の再配分や別の敵を造ることによって――というのもあるか)。

後者の方がより望ましいのは自明のことのように思えるが、ここでまた寛容の臨界の問題がでてくる。秩序維持のコストとやらの観点からは前者の方が安くつくという計算も成り立ってしまうのだろうか。また後者については「否」を唱える側から同意――正当性の形成に関わるという――を調達しなければならない。

・・・迷走中(続)